御消息等

■御正忌報恩講でのご門主法話(ご親教)〔2015(平成27)年1月15日御影堂にて〕

  お念仏申す日々を
 
         
   本年も、ようこそ御正忌報恩講にご参拝くださいました。
   全国から親鸞聖人をお慕いする皆さまがご参拝くださり、ご一緒におつとめし、お
  念仏申させていただく尊いご縁であります。このご縁にあたり、聖人のお徳を偲び、
  あらためて聖人がお説きになった浄土真宗のみ教えを味わわせていただきましょう。
   親鸞聖人は、比叡山で20年間修行に励まれました。しかし、どんなに修行をして
  も煩悩(ぼんのう)はなくならず、さとりを開くことはできませんでした。存覚(ぞ
  んかく)上人が書かれた『嘆徳文(たんどくもん)』には、比叡山での親鸞聖人の心
  境を「定水(じょうすい)を凝(こ)らすといへども識浪(しきろう)しきりに動き、
  心月(しんげつ)を観ずといへども妄雲(もううん)なほ覆(おお)ふ」(註釈版聖
  典1077頁)と著されています。
   心を統一しようとしても、さまざまな思いが浮かんできて、心安まらないという状
  態でありましょう。そのような中で親鸞聖人は、法然聖人が説かれていた教えに出遇
  われます。それは、私自身の行為である修行の限界を知り、阿弥陀さまのはたらきの
  無限性にわが身をおまかせするという教えであります。阿弥陀さまの真実のはたらき
  に出遇ったとき、同時に、真実に背いた生き方しかできない私であることに気付かさ
  れます。親鸞聖人は『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』に、「浄土真宗に帰す
  れども 真実の心(しん)はありがたし 虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて 清
  浄(しょうじょう)の心もさらになし」(註釈版聖典617頁)と記されました。
   親鸞聖人が説かれた浄土真宗の教えの特徴の一つは、「虚仮不実のわが身」と言わ
  れた、自己中心的で、正しさや清らかさを持たない私が、そのままの姿で受け容れら
  れていくところにあります。しかし、虚仮不実のわが身がそのままでよいということ
  ではありません。それは、どこまでも悲しむべき私自身の姿です。
   同じ『正像末和讃』に、「小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身にて 有情利益
  (うじょうりやく)はおもふまじ 如来の願船(がんせん)いまさずは 苦海(くか
  い)をいかでかわたるべき」(註釈版聖典617頁)とあります。何一つ真実のない
  私に対して、阿弥陀さまは、「そのままの姿で救い遂げる」とはたらいてくださって
  います。その阿弥陀さまのはたらきに全てをおまかせする以外に私が救われる道はあ
  りません。
   阿弥陀さまのお慈悲を感じるとき、私たちは自分自身の姿を見つめながら、等しく
  阿弥陀さまの願船に乗せられた者として、他の多くの方々と共に、この限られた命を
  歩んでいくことができます。
   阿弥陀さまのみ教えをわが事として聞き、ご縁ある方へもみ教えをお伝えするとと
  もに、さまざまな悲しみや苦しみを抱えている方の気持ちに寄り添えるよう努めなが
  ら、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す日々を送らせていただきましょう。
                     本願寺新報2015(平成27)年2月1日号掲載