◆『教行信証』撰述機縁にした法要
本日はようこそ立教開宗記念法要に御参拝くださいました。
この法要は、親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類』、いわゆる『教行信証』をお
書きになり、浄土真宗のみ教えをお伝えくださったことを機縁とする法要でありま
す。ご法要を縁として、あらためて浄土真宗のみ教えを味わわせていただきましょ
う。
親鸞聖人は「正信偈(しょうしんげ)」に「極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくに
んゆいしょうぶつ) 我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう) 煩悩?眼雖不
見(ぼんのうしょうげんすいふけん) 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょう
が)」、すなわち「極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあ
れども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて見たてまつらずといへども、大悲、倦
(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり」(註釈版聖典20
7頁)と示されました。
現代語訳すると「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた
阿弥陀仏の光明の中に摂(おさ)め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさ
えぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲
の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」(現
代語版『教行信証』151ページ)となります。
物事を自分にとって都合がいいように理解し、真実を真実として見ることができ
ないのが、阿弥陀さまから見た自己中心的な私たちの姿です。
◆み教えを聞き 縁ある方へも
例えば、私たちは「すべての人は必ず死ななければならない」ということを、知
識としてはわかっていても、自身や親しい方の死に直面した時、それをなかなか受
け入れることができません。しかし、たとえ煩悩によって真実を見る眼が覆われて
いたとしても、「念仏せよ。必ず救う」と絶えず喚(よ)びかけてくださっている
のが阿弥陀さまです。
阿弥陀さまのはたらきに出遇(あ)い、自己のとらわれに気付かされた時、私た
ちはさまざまなご縁を大切にしながら、この限られた命を生き抜くことができます。
今日ご参拝の皆さまには、今後もお寺へお参りくださり、み教えを聞かれますと
ともに、ご縁ある方へもみ教えをお伝えいただきたいと思います。
本日はようこそご参拝くださいました。
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